神戸YWCA夜回り準備会のブログ

神戸YWCA夜回り準備会(仮)のブログです。詳しくはウェブサイトをご覧ください(https://www.kobe.ywca.or.jp/top/activities/regional/yomawari/)。

反G8・豊浦キャンプでのできごと 1

ここに載せるのは、夜回り準備会のメンバーnが2008年7月に反G8サミット行動で洞爺湖現地キャンプに参加したときの記録です。書いたのは帰ってきてすぐですが、今回夜回りの報告書に少し記事を書かせてもらい、長すぎるこの日記のような記録はブログに載せてもらうことになりました。洞爺湖で行われたサミットには、世界各地から反対する人が集まり、札幌と、現地近くの豊浦・壮瞥・伊達の3箇所でキャンプとデモなどが行われました。nはそのうちの豊浦キャンプに滞在、連日のデモに参加しました。日本でこれまでになかった多くの海外勢を受け入れるためのキャンプの取り組みの中で、起こったこと、考えたことを時系列で書いてあります。

【7/6】各キャンプへ

 札幌からキャンプへ移動。前日から、京都から船で来た組と合流し、一緒に行動している。関西から、京都の子たちを中心にフェリーで行くツアーが組まれ、仕事があった私は飛行機でそこに途中合流。反戦生活や長居のなかまなど見知ったメンツと、文教大学の子たちなど、知らない人たちも半分以上。総勢20人余りだろうか。伊達と豊浦と、半分ずつくらいに別れる。各キャンプへ向かうバスに乗る前から(ホントはもちょっと前から)豊浦キャンプにはメシがない!?という話がささやかれる。「そんなこたない、食材はあります!あと、山谷のひとも(炊き出し班として)来ます!」とアナウンスされる。何人かで、食材があるなら自分らでつくればいーじゃんね、という話をする。楽観。山谷が来るのも知ってたので、豊浦行きのバスに乗る。私はとにかく、扇町公園テント村代表?YDさんとともに山谷/隅田の炊き出しチームに合流するのが第一の目的。あとは決まってない。大阪では釜パトに弾圧があり、扇町から行くYDさんと、誰か一緒に行けないかということで、同行することに。
 バスは結構空いている。ひと少ない。日本人もそんなに多くない。YDさんに、自衛隊時代の話をいろいろ聞いたり、寝たり、あそこに植わっている野菜はなんじゃろ、と話したりしながらバスはすすむ。途中のサービスエリアで野菜とか、いろいろ売っててステキ。一応酒は買っておく。じゃがいも焼酎。私は酒しか飲まないのでタバコのことには気づかないが、YDさんはタバコが切れてたみたい。ビールとタバコを買ってた。
 豊浦に着く。検問があるとか言われて緊張していたが、結局なかった。山山山―――。山しかない。とりあえず受付し(一泊1000円のカンパ前払い)、テントを張って、最初のミーティング。段取りはあまり決まっている感じではなく、キャンプ内でいくつか話し合わねばならないことが示されるが、通訳と仕切るひとが混線しながら、結局まずみんなでごはんをつくって、食べて、それから全体でミーティングを持とう、という話になる。
 共同炊事スタイルは、おおむねうまくいっていたと思う。言葉や文化の違うなかまと一緒にごはんをつくる。包丁の研ぎ方に笑ったり、みんなでやたら刻んでる生姜の切り過ぎをなんとか止めたり。ただ、つくるひとにしかそのやり方が周知されていなくて、あとから食べに来た人にはあんましうまく伝わってなかった感がある。言葉も違う中で、アナウンスが行き届かない。しかしごはんはうまかった。炊き込みご飯と漬け物とみそ汁。初日から贅沢だ。山谷のなかまとYDさんたち、張り切って、大活躍だった。

ミーティング紛糾

 その後の1発目のミーティングが、やばかった。私たちには、話さないといけないことが膨大にあって、大きくキャンプの運営についてと、明日の行動について。キャンプの運営についても、防衛体制やごはん、セーファースペースやメディア対応などひとつひとつ大事なことが網羅されてたのだが、ほとんど話し合う時間がとれなかった。というのも、明日の行動(というか毎日の行動)の内容が「発表」され、それについて話し合いが紛糾してしまったからだ。行動内容は、これから3日間、キャンプ地から「とようら道の駅」まで20kmデモする(正確には22kmだったらしい)というものだった。それについて質疑が繰り返される中で、徐々に参加者らから、その行動に否定的な意見が出てくる。「デモとはデモンストレーション(威示行動)なんだから、そんな海や山しかないところを延々歩いてどうするのか」「そもそも20km歩けるのか」「最終地点でいったいどんなアクションができるのか。何もできないなら意味があるのか」それに対し、行動を計画していた人たち(たぶんダイレクトアクションワーキンググループという名のもとに集まった面々)からも「警察とのやりとりの中で、最大限できるコースを交渉した」「県道を行く短いコースでは、デモ申請がおりないと言われた」「最大の見所は、デモ途中、山を登ったところでウィンザーホテルが見える」などと返す。
 そこから議論は泥沼化。「どうしてこのデモコースなのか」という問いに、主催の一人であるBさんは「意地だ」と答えるが、通訳者に「それは訳せないよ」と言われる。「そもそもなんでキャンプが3つなのか、行動も2つなのか」には「脱中心でやりたかった」。。うーん気持ちや論理は分かるけど、現実的かどうなのか。。聞きながら思い出したが、私は行く前にネットでこの「おおらかなデモ」という情報に少し接していた。それは、両サイドからウィンザーホテルを挟み撃ちに、とうたっていたので、おそらく湖岸を歩きながら少なくともホテルが見える場所まで行くものだろうと思っていた。しかし、湖岸すら歩けないというのは、それはあんまし挟んでないんじゃないか。そしてそもそももう一つの伊達キャンプの行動と、そんなに一緒にやるって感じじゃないのね。
 北海道に行く前から、やっぱしキャンプ別々なところになっちゃうのやだね、行動も一緒にやれたらいいのにね、なんで別なんだろうと伊達に行くUや何人かと話していた。この泥沼会議が続いているなかでも、伊達の子たちから連絡が入り、一緒にやろうや、の提案もある。一度は「そっちのデモはデモ申されてないらしい」なんつうガセが伊達のLから入って混乱したりもしたが、一緒にやりたい機運は高まっている(私の中で)。そして日本人を中心に「初日なんだし、何か行動はしたい。行動するなら、デモを短くして歩くか、伊達と合流」という感じにまとまりそうだった。インターナショナルズ(海外勢)は、明日の朝起きてから、どういう行動をするか話し合おう、ということになったみたいだった。

小爆発

 ミーティングが少し方向性を持ち出したかな、という0時頃に、キャンプのスタッフらしき二人の日本人が、急に全体に呼びかけた。もう一つのキャンプ、壮瞥キャンプについてのアナウンスに5分くださいという。今ここで必要な話なの?今の議論と関係があるのか?などの意見が出る。そしたら、二人のうちの一人が、「関係なかったら話しちゃいけないの!?」と啖呵を切った。その激しい反応にびっくりした。みんな意味が分かんなかっただろうと思う。結局、ざわついたのち休憩になり、興味がある人は外に聞きに来てくださいというので、聞きに行ってみた。
 そこで、何でそういう呼びかけをしたのかという話を聞いた。このキャンプの運営にすごく疑問を持っている、このミーティングのあり方にも、合意形成の仕方にも。あのぐちゃぐちゃした話し合いの最中だったからこそ、あのアナウンスをしたかった、という。私は、「あの場でああいうふうにしても、あんまりその気持ちは伝わりにくいと思う。みんな長い話し合いで疲弊していて、やっとまとまりかけていたところだった」と言うと、啖呵を切った子に、「あれでまとまっていた?手をヒラヒラさせて、なんとなく多そうだから、で決まっていって。あんなのが合意形成だったらクソだ!」と吐き捨てられた。私はそのあまりにも剥き出しな拒否反応に、ショックで、怖くて、何も言えなくなってしまった。その場は少しして収束し、みんなはまた話し合いに戻って行った。
 私は、さっきのは何だったんだろう、と全体の場には戻れず考えていた。彼らが感じているしんどさ、というのはあるのだろう。そして、それはキャンプをつくっていく過程で、キャンプ地が二つになってしまったり、運営の方法だったり、いろいろな齟齬があったのだろう。でもその何にも説明もされず、いきなりただ激しい拒否反応をぶつけられた。集会場では、そういった経過も何も知らないみんなが集まって、ただどうやって反G8の行動をやるかという一点で、手探りながらも話し合いが粘り強く続けられていた。そのことも否定された気分だった。歩いていて急に犬に噛まれたみたいだ。つらくて、涙が止まらなくなってしまい、落ち着くまでその理不尽についてひとしきり泣いた。
 しばらくしてそろそろ寝たいと声をかけてきたYDさんを真っ暗なテント群に送り、戻ってみると、ミーティングは終わり、明日の行動について話す輪だけが残っていた。はじめミーティングは、全体の半数以上が日本語圏以外の人だった。150人くらいだっただろうか。そこから議論にしんどくなってきた人が抜けたりしながら、最後、明日デモすると集まったのはほとんど日本人の20名程度。コースが短くなったことを呼びかけたら参加したい人もいるかもしれない、と話しながら、明日のツメを話す。Bさんが、とにかく歩いてみてほしい、と言っていた。
 結局私が伊達のUとYTにメールを打ったのは午前3時頃。「明日こっちのデモコースを縮めて10km歩くことに」

【7/7】10kmデモ

 朝、激しい雨の音で目が覚める。雨かよー。一気に萎える。靴はかろうじてテントの中に入れてて無事だったけど、私のスニーカー、踵に穴が開いていて、雨天対応ではないんだ。今朝の共同炊事には参加できず、すいませんと思いながら朝ご飯をいただく。デモに行くことにしたYDさんはテントも寝袋も浸水してビショビショや、と言っていた。SEや他の何人かも、被害を受けている。これは結構萎えるなー。出発時は小雨。水はじきしないカッパを着て、共同炊事組から合流したYSやTOさん、RNと並んで出発。霧雨の中、鬱蒼とした森を抜けてひた歩く。ときどきシュプレヒコールをあげて、気合い?を入れるがこぢんまりとしてて、ちょっといい感じ。
 30分くらい歩いた、もうすぐ最寄り駅、というところだろうか。カマボコと機動隊たちが見える。先導車がついて、ようやくデモらしくなった。人数は、昨日より増えていて、全部で4,50人になっていたと思う。それでもほとんどが日本人だったが。革共同と白抜きされた赤い鉢巻をつけていた人たちがわらっと一団になっている。聞くと、彼らはほとんどが仕事で今日帰らねばならなくて、だから初日に行動がなくなる、ということはありえなかったみたいだ。彼らの旗を掲げることにかんしては、主催者たちは、話し合いをして掲げないということで合意していたようだ。そこらへんのことは、分かる人にしか分からない、とでもいうような不文律があったように思う。
 デモはひたすらシュプレヒコールをあげてすすむ。前の方でトラメガで叫んでいるが、なかなか後ろまで聞こえない。長いものになると、何を言ってるのか分からない。だんだん結構飽きてくるが、おもしろいコールが入るとまた盛り上がる。「誰のせいでここにいると思ってるんだー」「誰のおかげでそこにいられると思ってるんだー」後ろはいろんな人がいろんなことを言っている。ワッショイは簡単で盛り上がる。しかし、ずっと叫ぶのはかなりキツい。ワッショイの代わりに、「フゥ、フゥ!」を編み出した。字面だと伝わりにくいかもしれないが、モー娘。LOVEマシーンで使われてるみたいなやつ。これだと、声を張り上げなくてもいいし、喉もラクで高い音が出るので周りに聞こえる。YDさんと二人でフゥフゥゆってたら、あまりにバカっぽかったのか、RNやYSが横で大笑いしていた。そのうちYDさんは演歌を歌いだしたりして、えぇ声を披露していた。
 海岸線をひた歩いたデモの最終地点は、大岸という駅で、やっと少し民家が集まっていた。それまで、ちょこちょこまばらにいたホタテ工場のおばちゃんや、農家のおっちゃん、カモメ、犬などギャラリーの反応は上々で、みんな笑って手を振り返してくれたり吠えたり鳴いたり。写メも撮られまくっていた。大岸駅前の草野商店にて、ビールやつまみを買い、みんなで打ち上げ。草野商店はかなりのデモ特需だった。結構疲れたので、デモ後のビールがものすごく美味しかった。レインボーアフロをかぶってハッピを来てたSEが「写真とってもいいですか」と言われる。どこの人かと聞くと、講談社講談社の何の取材か聞くと「フライデー」。こちらは苦笑い。「そんな引かないでくださいよー」と言われる。SEが、自分はいいけど、と言うと何の取材もなくひたすら写真をばしばし撮る。これに書きたい放題書かれるのか、と思う。週刊新潮の長居代執行時の芝居を撮られた写真とキャプションを思い出す。
 しばらくみんなで休憩した後、レンタカーでおにぎりなどを運んでくれてた革共同の人たちが、一旦キャンプに戻るししんどい人は乗せてくれるという。私やYS、YDさんたちは、お言葉に甘えて乗せて帰ってもらうことに。残りのみんなは電車でキャンプ最寄りの礼文駅(1時間に1本ほど)まで行って、そこからまた40分ほどの歩きだ。これは結構人によっちゃキツい。帰りの輸送手段は本来のデモだったらバスが用意されていたはずだが、デモコースが短くなったことには対応されてなかった。

もうひとつのデモ−遠足

 戻ってちょっとすると、残っていた海外勢がぞろぞろと動き出していた。集会場で話し合い、とにかく電車で行ける所まで行ってみる、ということになったようだ。私とYSも行くことにした。しかしそこでもまた、主催の制動がかかった。入り口ゲート近くに集まってどういうことをするか話していたインターナショナルチームに対し、Bさんが「これからの行動は逮捕の危険性がかなり高い。日本では逮捕されると起訴なしで23日間拘束できる。捕まった人はもちろん、それを救対する人も必要だが、こちらにはその準備はない。ここに居る中でそれだけ日本に残って対応ができる人はいるのか」と問う。それに対し、半数弱の人が手を挙げ、Bさんは退散した。と、思ったら今度は「日本人集まってください」。そして、「彼らは電車の駅まで行き、電車に乗って豊浦駅を目指す。下手したら駅まるごと包囲されて全員逮捕もありうる。日本人はさらに逮捕の危険性が高い。通訳や、リーガル以外の人間は、はっきり言って足手まといにしかならない。行かないでほしい」と。通訳の子の中には海外に住んでいて、逮捕されると出入国がむつかしくなるということもあり、そこまで逮捕のことを言われ、行くことにためらいを表明する人も居た。
 まるで脅しだ、と思った。外国人は切り捨てる、自己責任でやれ、という話じゃないかと思った。インターナショナルチームは、日本人の方が逮捕の危険性が高いということで、日本人を守るという陣形についても話していたというのに。「これから、デモではなく、遠足に行きます!」とJMが通訳していた。雨がきつくなってきて、大岸で別れた子たちが戻ってきた。ワッショイですごいテンションだ。帰り、礼文の駅からの道のりはまるで無届けデモで、やりたい放題ですごく楽しかったのだという。彼らにはBさんが、今から外国人チームが出発するが、日本人は極力行かないでほしい、と説明する。みんな納得していた(というか疲れてもいたと思う)のか、話を聞いて見送りにまわった。私とYSは、悩んだ結果行かないことにしたが、まるで“外国人たちが勝手にやりたい放題やるのを見捨てる”というような感じがして、申し訳なかった。行動は別れても、一緒にキャンプをともにしているなかまだという意識は、昨日の夜からできていた。
 雨の中出発するインターナショナルチームを見送り、YSと少し悶々をシェアして、炊事を手伝って集会場でご飯。カレーであった。ずっとフード班にいた東京からのSZさんのサラダの味付けが秀逸で、おかわり続出。韓国から来たメディアアクティビストの子たちと話しながら食べる。しかしちょっと寝とかんと、と思い横になる。しばらくして山谷のMKさんが「キャンプは今日で終わりかもしれない。今行っているチームで逮捕者が出たらキャンプにガサが入る。その対策を話し合おう」とアナウンス。緊張感が漂う。と、誰かが「戻って来たーー!!」と叫ぶ。一時間も経っていなかったように思う。ずぶ濡れで帰ってきたみんなを出迎え様子を聞くと、礼文駅に辿り着く前に警察に阻止線を張られ、そこから行かせてくれなかったそうだ。みんな疲れきっている様子だった。カレーを盛り、手渡して行く。
 雨がずっと降っていたこともあり、集会場は人でごった返していた。しばらくまどろんだり、寒さに目が覚めたりしていると、パイプ椅子に輪になって座っていた、フランスかスペインあたりの人たちがどっから手に入れたのか、大五郎の5ℓペットボトルを持ち込み、回し飲みしている。ときどき日本人の男の子たちも混じってイッキ。「飲まないとやっとられん、て感じなんだよ」と防衛で遠足に付いてってたYZさんが言う。んんー。ときどきでかい声も聞こえる。集会場はわいわいした雰囲気に。(2につづく)

反G8・豊浦キャンプでのできごと 3

【7/9】伊達へ

 とうとう3日目の朝、3キャンプ合流デモ!!うぉーやっと念願の統一行動だよ!しかし伊達までみんなで移動できるのか、その一点だけが不安だった。朝の集合で、DVたちに、パペットや横断幕などは、たたんでコンパクトにし、デモではなく移動であると主張して歩く、と確認。昨日確認したよりだいぶ人数が増えている感じがする。第1陣は7:30礼文駅発のに乗らないといけない。結局6:50くらいに出発しただろうか。駅まで徒歩でどれくらいか、いろんな人に聞いたが、30分かからないという人もいれば、50分くらい、という人もいた。公安のこともあるし一応早めに出発しようと言っていたのだが、京都メンバーとか、デモ解散地点からそのまま帰る荷物も持っていたので、もたついてしまった。
 先頭を歩くSEが、ずっとNHKか何かのテレビ取材を受けている。SEしか撮らないということで、撮影しているのだが、バランスの悪いバックパックと荷物を抱えてフラフラしながら淡々と取材にも答えているSEって本当にすごいなと思った。山道を抜けてしばらくして、公安の車がうろつきだした。止められたらやだなー、時間ないなーと話しながら歩く。すると、豊浦の役場のひとらしい車が来て、「どこ行くの?」と聞かれた。どう答えたもんかと思っていると、「恥ずかしがらんでいいよ」「帰るの?」。「駅まで行くんです」と答える。「そうか、おつかれさまー」。やりとりはごく親しみのあるものだが、それを公安に報告するのだろう。「地元の人使って聞くのは卑怯だよなー」とSEが言う。結局公安は話しかけては来ず、そのあたりに散り散りいる公安の群れの中をてくてくと歩いて通ることになった。
 あと10分くらい、のところで、まだ駅が見えない。これやばいんじゃないか、と後ろ長く伸びている列に、急いでーと呼びかける。私はデモ後一度キャンプに戻ることにしていたので、荷物がない。とりあえず走ることにした。ダッシュしてたら、公安に混じって沿道の人たちが、「がんばれー」「もうちょっとだぞー」と声援を送ってくれる。駅伝を思い出し、なんか幸せな気持ちになる。こんな走るのひさしぶりだなぁ。一人駅にたどり着き、「まだみんな来てないんやけど、電車待ってくれるかな?」。「さぁー、車掌さんに聞いてみてごらん」「もう帰るの?」「おつかれさま」なんだかいろんな人が声をかけてくれる。電車は少し遅れなんとかみんな辿り着いて、待ってる間に駅をぽつぽつと囲む公安に見守られながら、地元の人たちが話しかけてくる。「昨日心配になってゴールまで見に行ったんだよ。ほんとにあの距離歩くとはなぁ」「よくがんばったねぇ」どうやら役場の人のようだった。キャンプでもロッジにいたらしく、ずっと見守って?いたそうだ。「そうなんです、大変だったんです」。「またおいで」と見送られ、電車に乗る。
 しかしそっから、私はまた別の不安で頭がいっぱいになった。一緒に来たメンバーは32人だったが、その中に昨日も見かけなかったし、キャンプで見たこともない、そしてとてつもなく公安っぽい格好をした人がいた。ベストとリュックとキャップとか、偏見だが公安らしすぎた。無言でケータイをいじっている。でも私が交通費カンパを回収にまわると、説明する前に無言で800円出してくれる。さらにもう一人、誰だ?という感じの人がいて、JMやDNには伝えて様子を見てもらうようにした。プレッシャー。へこんだ。しかし行かねば。増えた人数分のタクシーを電車から追加で頼んだ。
 伊達紋別の駅に着き、でっかいパペットグッズを後ろになんとか詰め込み、みんなに乗ってもらう。喉が渇いたのでお茶でも、と思いYDさんの分も、と思うがYDさんがいない!探していると、一台先に出たと言う。それにさっきの知らない人も乗ってったらしい。うそー。しかも、タクシーがまだ足りない。なんで?32人で数えて計算したのに!駅員さんも確かに32人ですね、とそんだけのお金しか払ってないのに!また新たにナゾの人が増えたのか?とあせる。でも仕方がないので、乗った順に出発してもらい、私とJM、HY含む5人で残る。しかも小型しかなくて2台頼んで待つ。その間に、デモ出発地の集会場にいるUやYTに電話し、「ごめん何か知らない人がそっちに行くかも…。」と説明する。やっぱにわか防衛なんかちゃんとできないんだ、と泣きそうになる。Uたちは、仕方ないよ、こっちで対処する、と言ってくれた。タクシーが来ない間、お腹が空いたのでJMとセイコーマートへ買い出しに。JMは東京に留学してて、やたらと日本語がうまい。人類学をやってるそうで、いろいろ話し、おもしろい。こうしてお互いのことを話す時間が、なんて全然なかったことか。タクシーでも香港からのBNが加わり、香港WTO時逮捕された友人の話になったりして、おもしろかった。そういえば京都からのメンバーとも、ほとんど交流してないなーと気づく。

3キャンプ合流デモ

 下久保内の集会場(牧草地)に着くと、ほとんど集会も終わりかけて、デモ出発の準備をしていた。周りは何にもないところに、ずらっと警察車両が並び、すごくシュール。エスペランティストとして神戸から伊達キャンプに参加していたNNさんに感動の再会!なんかすごく久しぶりのような気がする。さっきの怪しい人の容疑だが、ここで晴れる。伊達キャンプに来てた人の友達だった。パニクってたとはいえ、疑ったことを申し訳なく思う。声かけて実はあなたに対してこうこうこんな感じで思ってたんです、すいません、と謝ろうかと悶々とするも、どこに行ったか分からず、デモの準備でばたばた。そろそろ出発、て言われ、豊浦から来たメンバーで一応デモの中でのことを確認したかったが、ままならず。伊達グループの後に豊浦、その後に壮瞥で並んでと言われ、出発せざるを得ない。山谷の車も無事着いていた。ずっと炊事をしてた子も、今日は行動に参加したい、とみんなで車を出しての参加だった。来れてよかった(もちろん他にも全く参加できてない人もいたのだが)。
 歩き始めてからすぐに昨日までと感じが違うのが分かった。緊張、緊張。ダッシュどころではない。伊達の方が党派とかが多くて、警察も厳しい、みたいな話をどこかで聞いた気がした。警察がピリピリして声を荒げるのに、豊浦からの海外勢は何を言ってるのか分からなくて、さらに緊張する。ちょっとした警察との言い合いなんかが、彼らからしたら攻撃されているように感じ、デモが中断しもみ合いになる。その間に撮影していたLががんがん警察に突っかかっているのを見て、不安に思った何人かが、「あの彼が危ない、大丈夫なのか?」と聞いてくる。「大丈夫。友人で、他の子が彼のこと見てるから」そう言うとちょっと安心した様子。そうだよな言葉分かんなくて、日本はやばいぞとあんなに言われて、心配になるよな。でもYTやUがサブ指揮やってるみたいで、ちゃんと見ている。
 SEと、ダッシュしたいなー、うちらでできるやろかと話すが、無理そう。。休憩地までに、何度かデモがストップする場面があり、一度は海外勢がスクラムを組み出してしまい、完全に止まる。デモが分断されるとあぶない。でも私もスクラムの中に居て、スクラム組まないと怖い、ていうのも感じた。いつ引っこ抜かれるか。なんとか少しずつ緊張をやわらげて、スクラムは解かれ、また隊列はすすむ。伊達の全体指揮の人に、豊浦の指揮は誰か聞かれ、あのハッピとアフロの子です、とSEを紹介。通訳も伝えといた方がいいと思ってJMも紹介。あと、パペットとか全体を見てるのがDV、と。
 その間に、RSさんたちが豊浦からタクシーで着き、あれ?バスまだ来てないの?て話になる。第2陣のバスが、出発時やはり全員は乗れなくて、その中ででも行きたいという有志でタクシーで来たのだという。1万円ほどかかったそう。みんなが乗れなかった、というのと、まだ着いていないというのに不安を覚える。もしかして検問で足止めされてるんだろうか。ここで合流できないなんて。NNさんに会えてほっとして、この間のことをわーっと話す。豊浦での会議会議会議。ここに辿り着くまで大変やったーという話。しばらくして休憩地の道の駅が見えて来た。来てた!みんな。涙。CNTのEたちも来てた。乗れなかった人はほとんどいなかったよ、とのことだった。一安心。
 しかし、一旦今後の防衛のことも話さないと、とUたち伊達のデモ指揮の子たちと、全体のデモ指揮のひとたちと話す。スクラム組む方が危ないこと、すでに何度も警告が出ていて、デモのメンバーの行動もあるが、結局いかに権力対応するかで逮捕者出るかどうか、みたいな話。それをUがまかされていて、荷が重いなーと思った。でもUなら。たぶん。JGたちも防衛にあたっていて、Uを見ていてくれたりする。そこらへんとコミュニケーション取りながらすれば、大丈夫かも。JMのとこ行って、海外勢に今の状況とかを話す。みやみに止まらない、スクラム組まない、日本の警察に何が刺激になるか、不安に思わなくて大丈夫だから、とにかくデモ隊の列が途切れないように、などなど。現場での信頼関係や行動をともにするときの関係作り。いきなり知らない人がわっと集まる代執行の場を思い出す。うつぼや、長居でもあったことだ。
 休憩地から出発するときに、警察車両が救護車の前に割り込もうとするヘタを打ち、伊達の人たちが申請と違うやろ!と激しく抗議。またデモ隊が止まる。結局警察のせいでデモがスムーズにいかない。抗議している伊達の人たちが頼もしく思えた。そのまま緊張を繰り返しながらもデモ。一度、装甲を付けた黒い警察部隊を投入され、後方が遮断されてデモ隊分断という事態に。怒号が飛び交い、後ろが見えない。すわ逮捕か、と思われたが、しばらくしてなんとか分断は解かれ、みんな戻って来た。良かった。これ以上逮捕はいやだ。原因は、誰かが沿道にささってた「サミット歓迎」かなんかの旗を抜いて振り回したかららしかった。。(日本のデモでは、旗を持つのはいいが、水平にしたり振り回しちゃダメ!なんだそうだ!)
 なんだかんだありながらも、後半は、ドラムに集中。シュプレヒコールもせず、ひたすら壊れかけた鍋を叩く。HYのリズムがきもちいい。どうやら壮瞥に結構楽器部隊がいたようで、知らない人がいっぱいドラムやらなんやらやってる。いつのまにやらドラムブロック。ずっと炊事やってた味付けSZ兄さんも、なんかやたらドラムがうまかった。みんなステキ。ああやっぱ一緒にやれて良かった。来れてよかった。DVはお水とナッツをパペットを背負っている人たちや、みんなに配っている。ほんとこの人全体を見てるなぁと思う。
 湖が見えて来た。そうそうこれここに来たかったの!洞爺湖沿いにしばし歩いて解散地に着く。警察が広場から出られないように阻止線を張る。うろうろするCNTの子たち。うーん、彼らのやりたかった表現はできなかったんだろうなぁ。伊達の人々はハイ解散!と呼びかけているが、ドラムもやまず、パペットもわいわいやっている。ふっと、パペット集団が一か所に集まり、一斉に破壊。福田さんやブッシュの顔とガイコツの体が滅茶苦茶に壊される。あんまし気持ちのいいものでもないなぁ、と思う。しかしなんとか終了。今度はバス。もろきゅうをもらって伊達紋別から帰りの電車に間に合うようにと1台目のバスに乗り込む。集めた交通費が全然足らず、ジェイミーに頼んでまだの人に集めてもらう(でも結局足りずに京都ツアーで集めたカンパで補填したのだが)。Uに、あのパペットどーすんの!と言われ、処分するよ!と怒ってしまう。お互いにピリピリしてる。(でも結局残った人が処分したそう、ごめんなさい)
 バス接続の確認。帰りに間に合わない!?残った人たちのサルベージ。リーガルのKUやKちゃん、キャンプの人と連絡取り合いながら、なんとかなる。豊浦に戻って、少し休憩。少しずついろんな人と話す。一緒にスクラムを組んだアメリカからのSRに感想求められる。JGともゆっくり話す。なんと昔長居テント村のまつりで会ったことがあったらしい。18時半まで残り組を待って、札幌に向けてのバスが出発。Kちゃんといろいろ話す。そのうちフランスのACや香港の子たちが今回の行動について激論に。今日札幌のメディアセンターに泊まる組は、明日ミーティングして話そう、ということに。ははは、またミーティング!みんな全然話し足りてないもんな。札幌に着き、さて私は泊めてもらう友達と飲みに。明日はミーティングに参加しよう。でも一旦休みたい。夜の札幌の街は、公安以外の普通の人たちと車で溢れていた。そうだったこれが今のところの、たぶん日常なのだ。おかしな所から帰ってきた、という気分だった。でもあそこも、この国のまた日常だったのだろう。
 明日みんなで、一体私たちはどんな日常をつくりたいのか、運動をつくりたいのか、話ができるだろうか。

反G8・豊浦キャンプでのできごと 2

22kmのために

 再び会議が始まった。ハイ、明日の行動どうするか。まず今日の行動をそれぞれ報告、振り返り、共有。午前中のデモの帰りの無届けデモの映像が流され、ちょっとなごむ。アフロのSEがばかっぽくて笑えた。その上で、明日について。この日はファシリテーター(仕切る人)がリーガルもやってるDNという子に代わり、時間を区切りながらかなりさくさくすすめる。小グループに別れて、まず22km歩くかどうかについて話し合う。関西からの参加組で話し合うが、歩けるんじゃないか、という話になった。今日歩いた経験をもとに、歩ける提案をしよう、と。各グループが話し合いをもとに発言。昨日とうってかわって全体に歩くムードだ。今日の駅にさえ辿り着けなかった経験がみんなにひびいてるんかなぁと思う。私たちにはデモ申した道を歩くしか自由がないのだと。しかしこの日は、伊達からUやLたち関西メンバーが来て、伊達と一緒にデモしませんか提案もある。ドイツのパンクバンドが豊浦でライブするかもの話もある。おおむね歓迎ムードで受け入れられる。Lのキャラ勝ちだった。
 話し合いの方は、やはり22kmのデモより、どんな行動をするか、を話したい!という人たちと、デモがまず歩けるのか、という話をすべき、というのに分かれたように思う。その過程で、「行動するってそのことばっかりで、そういう西洋男子のマッチョなやり方にはもううんざり」とドイツのJGからの発言があったり、みんなで集まる話し合いの場の前に、お酒をがんがん飲んで大きな声を出すという状態がどうなのか、という発言が東京のRSさんから出たり、うなづくことも多く、おもしろかった。この日だったか憶えていないが、こうして延々ミーティングが終わらないことで、物理的にしんどい、という意見も出たり、あとは英語優位である会議がどうなのか、英語母語でない人もこんなにいるのに、という話もあった。
 結局22km歩く感じで決まっていきそうだった。話もいい方向に滑っていきそうだったので、とりあえず本日もYDさんの寝床確保へ。今日は昨日テントと寝袋も浸水したので、まったくゼロから探さないといけない。ミーティングはまだ終わりそうにないので、この集会場以外で探さないと。主催界隈らしき人たちに、テントのほかに泊まれるところがあるか聞く。どうやらいくつかロッジがあるらしく、そこに泊まってる人に了解をもらって、入れてもらうことに。しかし、寝具は全くない。毛布を持っている白人のひとがいたので、聞いてみる。彼は、これしか持ってないのだが(毛布だけ持って、夜回りしてるひとみたいだった。。)自分もテントがないので今寝るならどこか場所を教えてほしいと言う。その毛布をYDさんと分けて二人でロッジで寝てもらうことにした。その人はSSといい、偶然神戸の友達の友達だった。狭い。
 集会場に戻ると、最後の方は発言の前にまず自己紹介を入れたり、各国からそれぞれの行動・表現をしようという話があったり、外では韓国の子たちのプチキャンドルデモもあり。なんだか和んでいた。かなりいい雰囲気で終わったみたい。
 私も早めにテントに戻るが、この日は全く寝付けなかった。アタマの中にいろんな言葉ががんがん響いてて、神経がピリピリ。アタマが睡眠に入らないので体を横にしてても全然ダメだった。明日22kmだというのに!あと夜中にいきなり爆音で音楽が鳴り、しばらく嬌声や音が鳴っていて、おいキャンプサイトだぞ誰だ、と思ったけど今体も起こしてしまったら全然休めない、、と我慢。しばらくして誰か他の人が注意したのか、音は鳴りやんでカエルの鳴き声に取って代わった。

【7/8】22kmデモ

 さてとうとう22kmデモ!当日。結局ほとんど夜明けにまどろむ程度で、しかしこの日は、毎回の共同炊事に参加できてなかったので、ごはんつくりに参加しよう、と早起きした。結構たくさんの人が起きて、協力してごはんをつくっている。ほっとする光景だった。パペットアーティストのDVがいたので、少し話す。彼は昨日のミーティングで、伊達と合流して一緒にやる案を強く推しており、そのWG(ワーキンググループ、いうたら担当)をやる、と話していた。その後どうなっただろうと聞くと、とくにどうもなってないようだ。今日は一日デモだし、段取りは帰ってきてからやるしかないか、という感じだった。前日に歩いていたので、少し道の感じが分かっていい。しかも、今日は昨日と違って多くの人が一緒に歩く。それだけで嬉しかった。デモはいろんな楽器で楽しげにスタート。ピアニカが鳴り響き、マーチというのがぴったりだった。
 この日は前日のデモとは、またうってかわったものになった。22kmというのはやはりかなりキツかったが、それ以上にいろんな表現や出来事があり、なんとか歩き切れた、という感じだった。やったこと羅列。通訳のUMちゃん発案、Amazing Graceの替え歌で、やーめろーGー8ー!(これは帰ってきた大阪でも歌い継がれた)アメリカからのアニオタらしい子が、セーラームーンムーンライト伝説を歌い出したので一緒に熱唱。意外と全部憶えていた。しかしその子はゲーム音楽とかもっとマニアックなのもピアニカで吹きまくる。フランスのCNTの子たちが教えてくれたインディアンダッシュ。急に止まってしゃがみ込み、アワワワと声をあげていきなりダッシュ、誰が考えたんだ?両サイドの全国各地の警察の兄ちゃんたちはオロオロ。トンネルの反響も昨日よりすごい。休憩地点が海ならば泳ぐ海外勢。山ならばみんなでへたり込んでゴロゴロ。暑いので誰かがトトロのような山芋系の葉っぱを配りだし、みんなトトロ姿に反応。傘差してたら写真撮られる。さすが世界の宮崎アニメ。デモ長すぎるし山歩いて意味あんのかよ!と言ってたフランスのにーさん達が、やけくそのように「ハイキング!ハイキング!ハイキングデモンストレーション!」とシュプレヒコール。地元の散歩のおじいちゃんに遭遇すると、「こんなこと(サミット警備)に税金使って、わしらには後期高齢者とか押しつけて、死ねと言ってるようなもの」とか話している。応援される。YSが演歌を歌い出す。ドンパン節も歌える、すごいな。懐メロも飛び交う。なんしか、歌でも歌わんとやっとれん、て感じやった。歌なら言葉は違ってても結構共通するようで、イチローさんの牧場とかをいろんな国の言葉で歌う。昨日ぶよに噛まれたらしい足首がぱんぱんに腫れてきて、結構やばい。

疲労困憊

 解散地点のとようら道の駅に着いた!そこで何かやるという雰囲気でも場所でもなかった。それより何よりみんなの気力と体力が限界にきていたように思う。みんな、ようやく辿り着いて、思い思いに転がったり休んだりしていた。そしてソフトクリームやイチゴなど、豊浦の物産を満喫していた。バスが来るまでに、アエラの記者と韓国からのメディアアクティビスト、CYにインタビューを受けた。アエラにはまともに答えられなかった。なんで反G8行動に来たのか、前提から説明する気力もなかった。ええと付き添いで、とかテキトウに答えているうちに、こいつはダメだと判断したのだろう、そそくさと他の人の所に去っていった。CYはデモ中ずっとビデオを回していて、韓国語のお金とウンコの発音が似ていて間違いやすいという話から、YSと日本のキタナイ言葉を教えてあげていた。韓国の、「イムのための歌」?か何かを歌ってくれた。彼は安心できる感じで、インタビューも素直に受けられた。デモの感想を聞かれたが、しんどかったけど、なんとか多くのメンバーで最後まで歩き切れて、ほっとした、というようなことを話したと思う。
 そのうち、町営バスが来て、第1便で帰る人はそれに乗っていった。残ったメンバーで軽く宴会。誰かがビールを買ってきてくれ、カンパで分けながら乾杯。またもやビールがうまくて泣きそうになる。デモどうだった?という話になって、DVが、「これまで参加したデモの中で一番良かった」と言う。なんで?と聞くと、「このすばらしい自然の中を歩くということに意味がある。この、まさにここのこういう景色のために私たちは歩いたのだ。こういった場所を今から破壊しようとする会合に反対するために。そのことがすごく率直に感じられるコースだった」だいたいそんなことを言っていたように思う。褒めてのばす人だねぇ、と感想を言ったら訳されずに笑われた。しばらくみんなでまったりしていたが、そのまわりを公安がずっとうろうろしている。あまりにうっとうしいので、何人かが立ち上がり、楽器を持って公安に帰れコールを始めた。
 公安かえれ!かえれ!かえれ!1人がちょー至近距離でじっと睨み合っている。チューしちゃうんじゃないかとはらはらするぐらい近かった。こういうときにチューとかしたらどうなるんだろうか。それも公務執行妨害になるんだろか。睨み合うにしても、あんな顔が間近の至近距離でなんて、ちょっとムリとか思った。私たちの帰れコールに囲まれ、あきらめて車に乗って二人の公安が去って行った。くだらない仕事だと思った。
 第2陣のバスで帰る。地元のおじさんたちが見送ってくれた。なぜかずっとYSとコイバナしていた。神経がおかしくなってた。途中セイコーマートでチューハイなどを買い込み、さらに飲む。帰った時点で結構酔っぱらってた。帰ったらお風呂ができてる!!そのことに感動した。待ってる間につくってくれてる人がいたことにも感動。

合流に向けて

 しかしその喜びも束の間、すぐに伊達との合流に向けて動くことになった。昨日伊達から移ってきてたHYがすでに、おそらく帰りのバスでだろう、通訳のJMとそのことを具体的に話していて、一緒に話す。まずは伊達の感じがどうなのか、Uと連絡とりつつ、HGくんやDVもその実務に加わっていく。まずは何人行くのか。交通手段は。どんな行動をしたいのか。豊浦での行動を準備してた人たちは、伊達との共同行動は全く考えていないようで、行動に合流するバスももともとなければこれから準備もできないようだった。
 とりあえず電車やバス、タクシーの交通手段についてだけHGくんやHYに調べてもらっている間に、Uと連絡を取り、伊達と合流するためにはどうすればいいのか、話す。弾圧のこともあり、受け入れについては慎重に話がされているようだ。伊達で22時から会議をするので、それまで待つが、それまでに、豊浦からおよそ何人来るのか、デモの内容はどういうものか、それを知らせることと、自分たちで救援の体制をつくってほしい、などの話だった。
 交通も大変だった。公共交通手段で行くなら、集会場までは電車とバス。それぞれ1時間に1本しかない。集会に間に合うように組み合わせを考える。そうするとバスで行くには朝5時台に出発しなければいけない。ちょっとムリだ。ほんとに僻地にいるんだなぁと思えた。タクシーを考える。段取りをすませ、ごはんを食べているみんなに呼びかけて、いざ21時から会議へ。リミットは22時。ごはんを食べる暇がない。お風呂に入る暇もない。うひー。

ラストミーティング

 焦点は、その時点で行きたいという40人あまりをみんないっきに輸送する手段がなく、公共交通で行くしかない。ただもう一つ、ちょっと遅くなるが壮瞥までのピストンバスに乗って、デモの途中で合流できるよう降ろしてもらう、という案もあった。しかしそのバスは人数が26人と限られており、どうしても全員は乗れない。やはり公共のものを中心に考えざるをえなかった。
 つまり第1便が、礼文駅まで40分歩き→礼文伊達紋別まで電車→そっから集会場までタクシー。第2便が、壮瞥までのピストンバスで途中デモに合流する。この二つ。できるだけ第1便で行ってもらうことと、どうしても金銭的負担の増える第1便の負担を共有するために、お金は全体で計算して割ってカンパで集める、というやり方でやりたいがどうか、とみんなにはかる。合意がとれ、早い便で行くというひとも20人以上手を挙げてくれたので、これでタクシーを手配し、時間を確認し、実務作業に入る。すでに22時を過ぎていたので、Uに連絡し、豊浦の状況を伝える。
 デモのやり方については事前にDVが提案してくれていて、ストップ&ダッシュのようなやり方をしたい人たちや、警察に介入されそうな行動をするかもしれない人たちをデモ隊の中の方に配置し、パペットやドラムなどを外側にして守る、ということだった。これが海外のデモでよく言われているブロック制なんだと後で気づく(そしてそういう役割分担みたいなものは日本でもあるやん、とさらに後で気づく)。そういった内容をUに話す。「ダッシュしたりするの」と言われるが、最終的に伊達側はわたしたちのしたい表現で、と受け入れてくれた。きっといろんな話があったんだろうが、一旦受け入れてくれたことはすごく感謝だった。
 実務や連絡をしている間にも、みんなからの質問を受けたり、なんやかやと大変で、その間に私は集会場でずっと取ってたメモをなくしてしまったりプチパニックになっていた。しかし、関西組の面々がいろいろ自分たちで行動していて、すごくたのもしかった。移動の段取りと、明日どういう風にするかという話が詰められ、会議の最後の方には、今回のキャンプや行動を少し振り返るような発言も出ていた。例えばフランスのCNTの1人が、「今回は行動のやり方やキャンプのあり方についてばかり話になってて、どうしてこれをしたいのか。なんでここに集まったのか、という話がなかなかできなくて残念だった。でも日本に来れて、日本の人々と一緒に共同行動ができてすごく嬉しく思う。ぜひ来年のサルディーニャ島に来て、そこでの私たちのやり方も、一緒に経験してみてほしい」と言っていた。前日にJGに「行動の話ばっかりしようとするマッチョさにうんざり」と言われていた人だった。そのときはすごくうなだれていた彼のその発言に、泣きそうになった。彼も母語でない英語で、伝わりづらいこともある中で、いろいろ考えていたんだろうと思う。他にもスペインのNCとか、日本の運動がこれからよくなってくように、これからつながって話していくための回路として、MLをつくろう、という提案もあった。嬉しくて涙が出た。
 全体の会議が終わって、明日第1便で行く私とJM、SEなど顔合わせ・連絡確認をし、第2便では、HGくんと通訳のKちゃんが行くことになった。会計と引率を担当し、何人かで最終確認。出発時間について、みんな曖昧だったので、ホワイトボードに書きなおした。たしか6:30集合にしたと思う。会議に継ぐ会議と実務と通訳でみんなもうアタマがぐちゃぐちゃだった。
 その間に少し、CNTの子たちと話ができ、やっと実務以外の話ができてまた泣いた。CNTの発言してた子はEといい、フランスで野宿の支援もしているとのことで、いろいろ話した。ようやくごはんを食べ(なんかすごくうまかった。動物性のものを使わないベジタリアン食ながら、ごはんは日に日に深化してて、つくる場にいれなかったのが残念&申し訳ない)、野外での映像祭を横目で見ながらお風呂に入る準備。遅すぎたので、また焚いてもらうことになり、Bさんが焚いてくれた。会議ではわけ分からんと思ってたけど、ふつーにいい人だなぁと思った。そして、明日の行動に関しては、最初あんなにデモで規制をかけていた面々が、会議からほとんどノータッチだった。限界だったのだろうか。放っておかれるのはありがたいような、見放されたような、複雑な気分だった。
 明日の行動には参加しない人も多く、みんな結構遅くまで喋っていた。お風呂からあがって、あんましちゃんと食べれなかったせいもあり小腹が空いたので、飲んでる界隈に行き、焼酎とおやつをいただく。そこでも、東京からのリーガルCGさんがデモ指揮の話などしてたので、明日はどんな感じになるかな?と聞くと「知らない」と言われ、なんだよう、と思う。うーん、伊達と豊浦がそんなに一緒にできない理由があるのだろうか。あるとしても何でそれをオープンにしないのだろうか。しかし疲れてたので、それ以上話はせず、集会場へ。今日は毛布持ちSSもいないので、私の寝袋をYDさんに貸し、HYと一緒に寝た。しかし寝袋一つを敷いて上布とかで眠るには、えらく寒くて何度も目が覚めた。(3につづく)

更生センター・更生援護相談所

2021/12/23 更新:
2020年と2021年にも訪問見学会を開催。詳細はこちらから↓
yomawari.hatenadiary.org
yomawari.hatenadiary.org

 JR灘駅のそばに、更生センターという建物がある。ここは神戸市が生活保護法に基づいて設立した更生施設で、現在は住むところのない男性が入る施設になっている(女性は入れない)。3階が居住空間で、そこでは畳2枚程度の空間が占有でき、3度の食事が提供され、週2回入浴できる。
 入居すると内部作業(内職)や外部作業(草刈など)、掃除当番などがある。6人部屋・4人部屋なので人間関係が難しく、そのため入所を希望しない人も多い。小遣いは月2,000円。禁酒を求められる。定員50名。
(写真)更生センターの外観

 同じ建物の1階部分(2階が入り口なので地下のように感じられる)が更生援護相談所という社会福祉法に基づく神戸市立の一時宿泊施設である。夕方記名すれば無料で宿泊できる。朝8時ごろには出なければならない。ただ、雨の日は昼間もいることができる。また病気であれば、晴れていても、昼間もいることができる。
 更生援護相談所での食事は年末年始には出るが、年明けから次第に減っていき、3月頃からは出なくなる。それでも1日にパン1個が、位置づけははっきりしないものの提供される。シャワー・入浴は3週間に一度くらい。2段ベッドなどで80床ほどあり、年末年始には100人以上が宿泊する。
 更生センターと更生援護相談所という2つの施設が同じ建物にあり、職員も同じなので利用者は混乱する。下(更生援護相談所)に泊まると風呂も食事もなく、毎日違うベッドで寝ることになり、前に泊まった人がシラミなどを残していくと痒い思いをする。
 職員が「弱っている」と判断すると、「上にあがるか(3階の更生センターに入所し生活保護を受けるか)」と声をかけるので、「職員に気に入られた人には食事が出て、風呂にもはいれる」と誤解する人も少なくない。
 週2回(月曜と木曜の午後)嘱託の医師による診察がある。急病であるか重篤ならばすぐ病院に搬送される。そこまでの状態ではなくとも、医師が病気かもしれないと判断すると近くの病院で検診するよう手配される。
 病院では最初は治療・投薬はせずに診断結果だけを更生援護相談所に連絡する。その結果、病気だと診断されると、相談所は「医療券」を発行し、ようやく治療を受けられるようになる。治療を受けるためには更生センターに入所するか、(原則として)相談所に宿泊しなければならない。自分の住んでいるテントやそこでの仕事、飼っている犬や猫が心配で相談所に泊りたくないという人は医療を断念するしかない。
 また、更生センター・更生援護相談所のほかに、自分で収入がある人のために「兵庫荘」(神戸市立)という一泊50円(月1500円)の施設がある。また「磯上荘」(神戸市社会福祉協議会)という一泊200円(月6000円)の低家賃の施設もある。どちらも、仕事が途切れて家賃を払えなくなると出されてしまう。

夜回り準備会の沿革

 ここでは神戸YWCA夜回り準備会の成り立ちから現在までのあゆみについて簡単に紹介します。

阪神・淡路大震災の救援活動から

 そもそも、神戸YWCAでの野宿している人への支援活動は、1995年1月17日に発災した阪神・淡路大震災の救援活動がきっかけで始まりました。
 阪神・淡路を襲った最大震度7の都市直下型地震では、死者6,434名という戦後未曾有の被害が発生しました。住宅被害も甚大で、186,175世帯が全壊、274,181世帯が半壊し、多くの人が一瞬にして住む家を失いました。当時、神戸市中央区上筒井にあった神戸YWCA本館も住むところを失った人の避難所となりました。

テント村での活動

 学校などの公的避難所は人であふれかえっていました。避難所に入れなかった人々は、倒壊した自宅、公園や空き地のテント、あるいは自動車の中で避難生活を送っていました。震災後1週間ほどから、そうした公的避難所の外にいる人々へ、神戸YWCA救援センターのボランティアが物資や情報を届けて回りました。

「ホームレス」との出会い

 一ヶ月ほど経った頃、公園のテント村を訪問していたときに、ある住民から「向こうのテントの住人には物資を配らなくてよい」と言われたことがありました。その「向こうのテント」に暮らしている人は、震災前から住むところを失っていた人、いわゆる「ホームレス」でした。多くの被災者が野宿していた当時の神戸で、こうした差別があったのです。
 この件について、救援センター内で議論を行いました。そこで「震災によって家を失った人であろうが、そうでない理由で家を失った人であろうが、区別する理由がない」ということで、その後も同じように対応することとなりました。

「神戸の冬を支える会」の結成

 1995年初秋より、神戸市内で同じように震災救援活動をしていて、「罹災証明を持たずに」つまり震災以外の理由で家を失って野宿をしている人を支援しているいくつかの団体が集まり「神戸の冬を支える会」が結成され、神戸YWCA救援センターもその構成団体の一つとなりました。
この「支える会」は、年末に野宿をしている仲間たちで支えあって冬を乗り越えるために、市役所南の東遊園地にテントで「冬の家」を開設しました。ここに神戸YWCA救援センターからも毎日ボランティアを派遣しました。冬の家を建てて神戸市と交渉を重ねた結果、更生援護相談所の施設改善を勝ち取り、冬の家は撤収することとなりました。

夜回り活動の開始と展開

 しかし、まだまだ寒い日が続いているため、支える会の呼びかけに答えて、1996年2月中の毎週土曜日、カトリック中山手救援本部や支える会の協力を得ながら、中央区(東部)と灘区で夜回りを始めました。これが私たちの「夜回り」活動のはじめになります。
 1997年には、野宿している人の状況把握のため、厳冬期以外にも月1度くらいのペースで生田川から石屋川あたりの夜回りを続けていました。1997年9月ごろには、青木フェリー乗り場の待合室で暮らしている人がいるという情報を得て、訪問の範囲を東灘区まで広げました。

「夜回り準備会」の発足

 1998年3月末には救援センターの活動は終了しました。4月より新たに神戸YWCA震災復興委員会が発足しました。この震災復興委員会では救援センターからいくつかの活動を引き継ぎましたが、その内のひとつが「夜回り活動」でした。
 この活動を行うグループの名称については、話し合い考えたあげく「夜回り準備会(仮称)」となりました(現在では「(仮称)」はとっています)。どうもピッタリとくるネーミングが見つからなかったという事情によるものです。
 このころから、毎月第2・第4土曜日の夜回りと第3土曜日のミーティングが恒例化しました。
 1999年からは「病院訪問」や福祉事務所への同行などの「昼回り」の活動も始り、現在にまで続く活動のスタイルが定まりました。
(年間活動報告書vol.4より一部抜粋)

神戸YWCAとは

 YWCAは、Young Women's Christian Associationの略で、日本語では「キリスト教女子青年会」といいます。100以上の国々にいる約2500万人の女性たちが力を合わせて、女性があらゆる機会において社会参加、自立することにより、平和な世界を実現するために働く、国際的な会員運動体です。イギリスで最初に創られ、日本では1905年に創立されました。
 現在、日本国内には27の地域YWCAがあり、「憲法改悪を阻止し、第9条を世界平和の礎にする」「『核』廃絶と、自然エネルギー活用の運動を推進する」「子どもの権利を守る」「女性への暴力の問題に取り組む」ことなどを運動の課題として、さまざまなプログラムを行っています。神戸YWCAは、そうした地域YWCAのひとつです。

読み終わった本をゆずって下さい

 野宿していると病院にはかかりにくいのですが、重病の時は入院できます.でも入院していると,診療費以外にテレビも洗濯も有料、病院によっては、入浴料も必要です.
 また退院後の生活に不安があるため、少し体が楽になると治療を中断してしてしまう方もおられます.
 私たちはそのようなことにならないよう,治療をあきらめないで続けるようにサポ−ト活動をしており,その一環として,お金をできるだけ使わなくてもよいように推理小説等の娯楽的な本の貸し出しをしています.
 そこで,皆さまの家に眠っている,もう読み終えてしまった本(文庫本)があれば御提供をお願いします!
 人気のある作家は…、推理小説では西村京太郎,落合信彦,時代小説では藤沢周平柴田錬三郎などが好評です(外国小説はイマイチのようです)。
 どうぞご御協力をお願いいたします.